1964.3 春合宿 

2年の春合宿は沖縄であった。当時は返還前で行くにはパスポートが必要だった。兵庫県庁に行って岸信介首相のサインのあるパスポートをもらい、神戸港から船で那覇へ向かった。私は下見だったので二人での船旅だった。船は貨客船で乗客はブラジル移民の人たちと一緒になった。外海にでるとうねりがあって船は大きく揺れ続けた。船内には家庭用のユニットバスぐらいの風呂があって入っていると水面が静かに傾いては戻る。水面が水平で風呂自身が揺れ続けているということである。那覇の港で下船すると今度は地面が揺れていた。
途中屋久島のそばを通りかかった。天気は良くなくて上部を雲に覆われ、いかにも洋上アルプスという雰囲気であった。
那覇では国際通り近くの先輩の友人の家に泊めてもらい、その時はじめてコークハイなるものを飲んだ。うまかった。これがアメリカの味かなと思った。
下見では沖縄北部を一人で回った。その時にユースホステルに泊まったのだが、行ってみると老夫婦がやっている小さな普通の家だった。完全な沖縄食で朝から豚肉の塊が入った澄まし汁様のものが出た。一晩泊って老夫婦の話した言葉で判ったのは宿泊料が1ドルということだけで他はまったく判らなかった。あちこちに「共通語を話しましょう」という看板が立っていた。
本合宿は名護から歩き始めた。地元の子どもがどこまでも着いてきた。
「奥」という村のそばにテントを張った時。蘇鉄の実が赤く実っていた。昔飢饉の時にこれを食べたという話になり焼いて食べてみたら意外と美味しかった。そのうちに生焼けの方が旨いということになり味わっていたら次の日は二日酔い状態で長いロードを歩く羽目になった。蘇鉄の実にはホルムアルデヒドが含まれているので注意した方が良い。それとこの実を食べに鼠が集まり、さらにその鼠を狙ってハブがくるという。注意が必要だ。
那覇に戻って市場へ食料の買い出しに行った。豚肉の塊を買ったら剃刀で生えている毛を剃ってくれた。う~~ん。
沖縄の海でも遊んだ。短パンで入れる深さのところに大きな雲丹がいた。いくつか取って早速食べてみたが最高の味がした。沖縄にも雲丹が居る事に感動した。しかも針の短い雲丹だった。(馬糞雲丹っていうやつか?)。雲丹って北海道かと思っていた。

常念-餓鬼

大学の試験休みは当時10月初めだった。蝶が岳から入り、常念、燕、餓鬼岳まで縦走した。常念岳の登りは空腹と疲れで苦労した。しかもいくつか偽ピークがあり何度か騙されながら頂上にたどり着いた。
餓鬼岳の小屋は無人で古びてはいたが我々だけで山小屋の雰囲気を楽しんだ。餓鬼岳からの下りはかなりの難路である。面白かったのは斜めの岩壁に針金が一本垂れ下がっており端に掴むための20センチぐらいの木が取り付けられていた。これに掴まってブランコのように斜面を横切るのである。一瞬のスリリングな道である。いまではもう無くなってしまっただろう。
その日はガス模様であったが、ガスの晴れ間に見えた紅葉は素晴らしい美しさであった。チラッと見える効果もあったのだろう。
信濃常盤に下っていく道はやがてリンゴ園の中を通って行く。赤く色づいたリンゴはちょうど収穫の最中で貰って食べたように思う。信州だな~と実感する一瞬である。

薬師岳

薬師岳にはワンゲルではない知人と行った。これも山に連れて行けというパターンである。歩き始めたところその頃出始めていた携帯ラジオを点けたのには驚いた。これは何とかお願いして勘弁してもらったが考えてみると今では音楽を楽しみながら歩いている人も多そうだ。
太郎小屋に泊り、薬師岳を往復した。薬師岳は大きな山である。天気も良く気持ちの良い山行だった。頂上付近の稜線は広くて長閑で、前年冬にここで大きな遭難事故があったとは思えなかった。しかし雪の中で吹かれると広いだけにどうしようもないだろうな。

野宿

秋田駒の次は薬師岳に行く予定だったが日程が順調に進み、予備日を下界で過ごすことになった。しかしその為に宿に泊まるなんてことは考えていなかったので何の予算処置も無く駅で二晩を過ごすことになった。日中は喫茶店とか映画で時間を過ごした。駅には夜でも人がいた記憶がある。夜行列車が時々走っていたせいもある。しかしながら人目が多く、街中は野宿をするには不適切なところである。
最高の野宿は一人で合宿の下見に行ったときに山間の田圃の中の藁掛けに潜り込んで寝たときである。静かだし暖かいし何の妨害も無く気持ちの良い朝を迎えた。藁掛けとは稲藁を積み重ね、上に屋根形に藁を被せてある。下に積んだ藁は使うと抜き取られるのでちょうど程良く人が入れる空間が出来ていた。程良いクッションでシュラフに包まって寝た。

八幡平-秋田駒

夏合宿のあと八幡平から秋田駒ケ岳までを縦走した。オオシラビソの独特の香りのある東北の山を体験した。最初の泊りはバス停で寝た。同行のKさんが唇を蚊に刺され、腫れて大変だった。
河原に温泉が湧き出ているところに泊まった。着いた時はまだ太陽が高く日差しが暑かった。しかし地元の人はタオルを肩に河原の適当なところでお湯を浴びて帰っていく。日中に温泉に入るのは何かそぐわないような気がして、私たちは夕方になって入ったのだがこれが大間違いであった。入ると同時にアブの群れが襲い掛かってきてのんびりと入っているどころではなかった。湯の上に浮かんでいるアブの遺骸と一緒にお湯につかることになった。
この下流には鳥越の滝がある。この滝壺は10メートル以上ある丸い天然の温泉プールだった。ぬるめで泳ぐにはちょうど良かった。
秋田駒には雪渓が残っていて合宿の残りのジュースの素でコッフェルいっぱいのみぞれを作って食べ、頭痛を起こした。
秋田駒は花の多いところだが特に立派な蝦夷つつじが一株あった。山歩きで出会う花は景色と共に楽しみの一つである。しかもかなり大きな楽しみだ。
秋田からの汽車は夜遅かったので田沢湖でボートに乗って遊んで時間をすごしたのだがそのために秋田の竿灯祭りを見逃してしまった。丁度その日は東北三大祭のひとつである竿灯祭りの日であった。

夏合宿(2年)

1963.7 2年の夏合宿は東北地方で行われ、私は五葉コースだった。釜石の近くに五葉山という山がある。ここから遠野に向うコースである。地図でみるとなだらかで笹のマークが続くところがありこれは長閑な山歩きかと期待していったが山は物凄い根曲がり竹の密生地だった。花が咲いた後なのか枯れた竹が密生し、地上1メートルぐらいの竹の上を歩いた。時々竹の密度が薄いところがあり地面に落ちてしまう。そうするとまた竹を掻き分け、よじ登り竹の表面に出て歩くのである。根曲がり竹の海だ。あわよくば岩魚でも釣ろうと持っていった釣竿は寝曲がり竹の海に落としてしまった。
確か青木鉱山跡とか言うところで山を降りてバス停で待っていると地元のおじさんが来て話しをしたがさっぱり言葉が通じなかった。こちらの言うことは分かっているらしいがおじさんの話は殆ど分からなかった。
山から下りて遠野神社で幕営し寝ようとした頃、とんでもない声量で歌う人が来た。歌は多分草原情歌だったと思う。朗々と響く歌声をテントの中で息をひそめて聴いていた。
自然も人も大阪ではお目にかかれないものばかりだ。

白山

1963.7 夏合宿の前にちょっと時間が空いたので高校時代の友人を連れて白山に行った。お前、山に行っているんやろ、ワシも連れてってくれという訳である。同期のKさんにも一緒に行ってもらった。白山はこの時が始めてである。雨が降ったが楽しかった。黒百合を見たのはこのときが初めてだと思う。岩間温泉では谷川に湧いている温泉に入った。温泉といってもただお湯が湧いているだけで何の設備もない。
この山行は部には届けていないし、無届けなんて意識は頭からなかった。ずっと後で聞いたがリーダー会で問題になったらしい。ひょっとしたらクビ(退部)になっていたかもしれない。
白山は良い山である。花も綺麗だし、雪渓も温泉も多い。なにより名前が美しい。その姿そのものである。
余談だが金沢の兼六公園には倭武の尊の巨大な銅像がある。その前の小さな石橋の右(多分)端から2番目の石に立って見上げると鼻の穴から空が見える。
ちなみに黒百合の花の香りを知っていますか。非常に独特な強い匂いがする。恋の花と言われる所以かもしれない。

旧人練成

これを通過するとまあ一人前というトレーニング合宿である。大変つらいという噂が先行して高まる緊張感の中を出発した。高見山、鎧、兜というともかく上り下りの激しいところを重い荷を担いで越えていく。キャンプサイトではわざわざ前日から濡らした薪を使うという念の入れようであったが一晩漬けたぐらいではたいしたことはなく簡単に火が点いた。どうやって歩きとおしたのかよく覚えていないが列がバラバラになり付き添う先輩(Kさん)と二人になるとなにかしみじみと話しかけられて感激した。
旧錬の後の泥のついた汚れたユニフォームで往きとは違う充実感とともに帰った。が足の爪は浮いてしまった。

1963.3秋吉台

春合宿の後秋吉台に行った。ユースホステルの傍にテントを張り、新しい洞窟を見つけようとただ広い秋吉台を歩き回ったが成果はなかった。夕食には鯨のステーキを食べた。飯盒のふたを利用して焼いたのだが独特の匂いがするが美味しかった。当時鯨肉を食べるのは普通のことで冬のミズナと煮たのなんかはよく食べた記憶がある。
ユースホステルは利用者もあまりいなくて夜は管理人のおじさんと楽しいおしゃべりタイムとなった。翌朝出発するときスピーカーで大きく「蛍の光」をかけて見送ってくれたが、少々嬉れ恥ずかしかった。

1963.3春合宿

一年の春合宿は中国地方一帯で行われ、私は広島県可部に置かれた本部だった。本部といっても一年なのでほとんど地域の人との交流を行っていた。主に発電所の放水路で蟹を取ったりして子供と遊んでいたのである。
子ども達を招待してハイキングをしお昼にカレーを振舞った。彼らはお腹が裂けるのではないかと思うぐらいに気持ちよくお代りをしていた。人間の胃も伸縮性が大きく必要なときには食い溜めもできるのかと思う。合宿の後では必ず胃袋が大きくなっているのを感じる。
この時の集結時のメニューは鶏であった。本部が奮発してメニューを考えたのだろう。生きた鶏を何羽もズダ袋に入れて運んで来て料理した。〆るのに苦労した。首のない鶏が走るのは始めて見た。
里入り活動としてシイタケ菌を木に植え付ける仕事をしている時にすぐそばで火事が起きた。周りに人影はなく大声で火事だ、火事だと叫んでいると消防車が来たのだが運転手だけでホースを持つ人がいない。そこでホースに振られながら消火をした。これも消防団の体験実習みたいなものか。幸い火事は大事には至らなかった。あとであのホースを持っていたのは誰なんだという話になったらしい。

1963.3春合宿

一年の春合宿は中国地方一帯で行われ、私は広島県可部に置かれた本部だった。本部といっても一年なのでほとんど地域の人との交流を行っていた。主に発電所の放水路で蟹を取ったりして子供と遊んでいたのである。
子ども達を招待してハイキングをしお昼にカレーを振舞った。彼らはお腹が裂けるのではないかと思うぐらいに気持ちよくお代りをしていた。人間の胃も伸縮性が大きく必要なときには食い溜めもできるのかと思う。合宿の後では必ず胃袋が大きくなっているのを感じる。
この時の集結時のメニューは鶏であった。本部が奮発してメニューを考えたのだろう。生きた鶏を何羽もズダ袋に入れて運んで来て料理した。〆るのに苦労した。首のない鶏が走るのは始めて見た。
里入り活動としてシイタケ菌を木に植え付ける仕事をしている時にすぐそばで火事が起きた。周りに人影はなく大声で火事だ、火事だと叫んでいると消防車が来たのだが運転手だけでホースを持つ人がいない。そこでホースに振られながら消火をした。これも消防団の体験実習みたいなものか。幸い火事は大事には至らなかった。あとであのホースを持っていたのは誰なんだという話になったらしい。

38豪雪

1963.1は強い寒波で明けた。38豪雪といわれる大雪が日本列島を襲ったのである。私たちは正月休みに青山高原に行ったのだがとても寒く吹付ける風雪の中を歩いた。
その38豪雪のさなか北アルプス薬師岳で愛知工大の遭難が発生した。山の怖さを教えられる事件だった。詳細を知りたくて近くの駅の売店へ新聞を買いに行った。山行きに魅力を感じ始めていたところに起きた事件であったが山へ行くのが怖くなるとかはまったくなかった。しかしその後の活動に慎重さをもたらしたかもしれない。当時は挑戦的な山行が多かったと見え、魔の山と呼ばれた谷川岳でも多くの遭難者があった。そんななか始めたワンダーフォーゲルと言う名の山登りであったから家族は大分心配したようである。岩登りはせずに山歩きであると説明していた。

八ヶ岳

1962.10パーワンで八ヶ岳に行った。パーワンというのは数名でパーティーを組んでいくもので、合宿とは異なり行きたい所を選び計画する。もちろん部の活動であるから計画の策定・提出などはきちんと行う。私は一年だったので連れて行ってもらったというところである。八ヶ岳は楽しかった。山も良かったのだがなによりパーティーの雰囲気が楽しかった。軽い荷物でのピストン形式の登山も楽しかった。岩の多い高度感のある山は初めてだった。
多分横岳だと思うが山頂のケルンの石の下に山手線の切符が挟み込んであった。そうか、ここは東京の人が来るんだと一種の感慨を感じた。山家の猿は花のお江戸で芝居をしなければならない。
Hさん(4年)がやけに大きな荷物を担いできた。中身はビンビールであった。その頃(昭和37年)にはまだ缶ビールが一般的ではなかったのだろう。そのビールを飲んだことは覚えていないのだがきっと美味しく飲んだに違いない。これが役員会で問題となったそうだが聞いたのはずっと後になってからであった。Hさんとは最近もご一緒させていただいている。楽しい先輩である。

事故

一年の夏合宿中の事故で桑原さんを失った。袖沢に入ったものの難しかった為撤退し、奥只見湖を船で渡っている途中で船べりから転落した。しばらく泳いでいる姿が見えていたのだが救いの船が行く前に水没し助けることが出来なかった。いまでもその情景が浮かぶ。残念の極みである。場所は銀山湖の虚空蔵岩の下あたりである。遺体は冬の渇水期に発見された。
桑原さんは四国今治の人であった。駅から近いところに菩提寺があり、石鎚山に行った際にお参りした。そのときお寺で抹茶をご馳走になった。
40数年後銀山平を訪れた際、清四郎小屋の主人に会ったがその頃消防団に入ったばかりで、遺体の捜索に当たったと話しておられた。

富士山

富士山はもちろん日本一高い山である。富士山にはいつか登らなければならないと思いながらなかなかその機会が無かったが50歳になって初めて登った。そろそろ登っておかないとヤバイかなと思ったのである。ちょうど流星群の時であり夜間登山だったので寝転がって休んでいると沢山の流れ星を見ることが出来た。大きなものはその軌跡がぼうっと空に残る。
富士山は2回登る馬鹿と言われるが私は結局3回登ることになった。最後はSさんを富士山に登らせる会の責任者に祭り上げられ10名ぐらいで登ることになってしまった。この時八合目で高山病の症状がでて登山を中断せざるを得ないメンバーが出た。やはり富士山は高い。
この富士山を遠くから見つけることが出来るとなかなかの感激ものである。新潟県の中岳や長野県の白馬岳あたりから見つけた時も嬉しかった。
東京付近では天気さえよければ富士山を見る事が出来る場所はいくらでもある。私が居た戸塚の寮の名前は富士見寮でその名の通り良く見えた。
大阪からは富士山は見えない。私は今でも富士山が見えると何か得をしたような気になる。新幹線に乗ってもそうである。

残雪

夏山に行って嬉しいのは残雪である。通常は雪渓、雪田というタイプのものであるが袖沢で出会ったのは雪洞であった。雪崩で積もった雪の山側が溶けて通り抜けられるようになっており道がそこを通っていたのである。今にも崩れそうで涼しかったのはただ温度が低いからだけではないようだった。
雪があるとほとんど例外なしにまずその上に乗ってみる、足跡を付けてみるということになる。そしてこれは結構きれいだなと思うと食べてみることになる。秋田駒ケ岳では合宿の残りのジュースの素が沢山あったのでコッフェルに一杯食べて頭痛を起こした。後立山では練乳で食べ、飯豊山ではミルク宇治金時を食べた。

雉打ち

いまは自由に出来なくなったものの一つが雉打ちである。もちろん雉が禁猟になったとか言う話ではない。食後の満足感に浸りながらスコップを片手に適地を探したものである。見晴らしの良い場所などを探し当てた時はかなり充実した一時を送れることになる。今はこういう自由は許されず大概は長くは居たくないところでそそくさと終えることになる。そしてこれからは携帯トイレ持参ということになるのだろう。排泄物というのは意外と重いものでもありそれを持ち帰るということで雉打ちの爽快感が随分損なわれるように感じるのは人間の手前勝手なのだろう。
それにしても中岳の頂上の草原での雉打ちはもう二度と味わえないものだった。
山に行くには日頃からウォシュレット無しでの訓練をされることをお勧めする。

雷にはいろいろな種類があるらしい。山での雷の特徴はまず音が大きい。周り中から音が跳ね返ってくるようだ。私の田舎では夏の午後には激しい雷雨が来ることが多かった。
雷は木に落ちることが多いらしい。私が見たのは木に落ち、途中から逸れて塀の瓦を割っていた。野中の田んぼの真ん中に落ちて直径10メートル位黒く焦げているのもあった。雷には火雷と水雷があるらしい。前者は火事を起こす。後者は火事にはならないらしい。雷が落ちて天井裏の蜘蛛の巣が黒く焦げていたという話を聞いたこともある。
山では雷雲の中に入ってしまうこともあるようだ。この場合には周りが帯電状態になってしまうのだろう。ともかく絶対的な安全策はなくただ小さくなって通り過ぎるのを待つしかないようだ。

1962.7 一年夏合宿

1年の夏合宿は魚沼コースだった。コシヒカリで有名な新潟県魚沼である。魚沼三山と呼ばれる八海山、中岳、越後駒ヶ岳から荒沢岳を経て奥只見ダムへ下り袖沢を経由して会津駒ケ岳へ抜ける予定である。八海山は日本酒名としても有名である。この八海山が私が登った最初の大きな山である。
夜行列車(夜汽車というほうが雰囲気が正しい)で東京まで行き、上越線で清水トンネルを抜けた。これが生まれて始めての東京だったが下車はなく窓から見ただけ。夜明けの寝静まった東京を通り過ぎた。
ちょうど梅雨明け目前の雨で合宿初日の炊飯には苦労した。半生の良く燃えない木を無理やり扇いで炊いたため煙くさい燻製のようなご飯になった。

八海山には頂上にいくつかの岩峰があり、掛けられている鎖を頼りに越えていった。始めての合宿の大きなザックを担いで岩を越えるのに苦労した。
さらに私たちを待ちうけていたのは雷である。丁度梅雨明けの雷雨が来襲しおかめ覗きという狭い尾根上で非難する所もなく斜面にしゃがむなどした。何もかもが帯電しているらしく人と鍋の間で火花が飛んだりしてびっくりした。さいわい被雷はなかったが文字通り髪の毛が逆立つようだった。

新人歓迎 予備合宿

オープンWが六甲奥池の周辺であった。お客様という感じでテントで寝たのを覚えている。これが私の初めてのテント泊である。今の奥池周辺は住宅街のようになっている。もうキャンプなんて出来ないんだろうな。
その後新人歓迎が比良山で行われたが私は行っていない。貧乏な私には山の道具は結構高かったので迷ってしまった。しかし先輩のKさんに説得され、続けることにした。しかしそのKさんは途中でやめてしまった。私は残ってしまった。
学生生活の昼休みはトレーニングの場となる。待兼山の上り下りのある周回コースと芝生で汗を流した。午後一番の授業は睡魔との闘いになる。戦いに敗れて熟睡なんてことも。そして次は予備合宿という訓練の場。担ぎなれないキスリングザックが肩に食い込むのを経験することになる。登り坂になるとなぜか「ファイト」の掛け声を揃えて歩いた。決して六根清浄ではない。やはり私達の山歩きは体育会系なのだ。

1962.4 ワンゲル入部

入学直前に自転車で5日間かけて名古屋、奈良、和歌山などをまわった。旅にあこがれるというか、色んな所を見てみたいという気持ちがあったのは確かである。家の中にじっとしておれないタイプである。
そして大学に入るとワンダーフォーゲル部があり、サイクリング部とどちらに入ろうかと迷ったが親身に相談に乗ってくれる(単に勧誘か)先輩もいたりしてワンゲルに入ることにした。当時ワンゲルは大変な人気で全入学者の一割以上の人が入部したらしい。後に聞いた話ではテントをはじめとする装備類の手配・入手が大変だったようである。同じクラスからも何名かの入部がありその中の一人であるKさんはそれ以来の長い付き合いとなった。
ワンダーフォーゲルというものを理解していたかはよく判らない。ワンゲルとは何かという課題はその後もずっと抱えたまま活動することになる。

1961年 初めてワンゲルを見た

私が初めてワンゲルを見たのは1961年の5月ごろである。甲南大学のワンダーフォーゲルの一隊が篠山町の和田から多紀連山に向って歩いていた。始めてみたキスリングの一隊は良い天気のなか良いピッチで行ってしまった。白昼夢のようであった。田舎の村に突然現れた一隊をただあっけにとられて眺めていただけである。その時はまさか私がそんなワンダラーになろうとは考えもしなかった。