雪の三方岩岳

多分1966年3月だと思うが雪のあるうちに三方岩岳に登りに行った。大杉さんの所に止めてもらってこの地方の名物(?)のジャガイモの甘辛煮っ転がしを沢山食べた。なぜかこのジャガイモは長崎辺りから来ると言っておられたと思う。
登山口の手前の谷は大きな底雪崩のデブリを越えて行った。朝方の温度が低い間はまるで運動場を歩いているようで快適だった。夏ならばブッシュ帯の上り道なのだがまっすぐ登れた。
頂上の岩の手前でどう登ろうか迷っていると熊撃ちの猟師が3人で登ってきて大分下のほうをトラバースし向こう側の尾根に取り付いていた。そのルートを取り頂上に行くことができた。頂上からは文字通り真っ白な白山がよく見えた。
帰りはだんだん雪が緩んできて時々ブナの根元の穴に踏み込んだりした。
学生生活の終わりだった。

1965.12石鎚

四国の石鎚山に行った。山小屋ではビールが凍らないように冷蔵庫にしまってあって面白かった。面河渓に下り道後温泉に入った。その時に一年の夏に亡くなった桑原孝一郎さんのお墓参りをした。お寺で抹茶を御馳走になった。
最近わかったのだがこの時にKさんのお宅に厄介になったそうだ。すっかり記憶から消えていて申し訳ないことはなはだしい。人間の記憶がいかに断片的なものか呆れてしまう。

1965,10 三方岩岳

1965年秋に三方岩岳から蛇谷へ山を越えた。白山スーパー林道の建設のため山に人が入り伐採がされ山越えが出来るようになっていた。谷に下りたところに蛇谷の湯が吹き出ていた。98度の湯が垂直に吹き上げており飛び散らない様にトタン板で屋根が作ってあった。湯は谷川に流れっぱなしだった。夕闇が深まる中スコップで河原に露天風呂を掘った。噴泉から流れてくる熱湯と谷川の冷水を引き込み、足でかき混ぜながら入っていた。良く温まる最高の湯だった。
翌朝、朝風呂を楽しんでいたらハイキングの女性達が現れ、お互いに慌てたものである。ここは中宮温泉からのハイキングコースになっていた。
今この山越えの道はないようである。

1965.8 白馬-槍ヶ岳

北アルプスの稜線歩きは楽しい。卒業後は東京の方に行くと考えていたので大阪にいる間に北アルプスを全部行こうと計画したのが白馬から穂高までの補給なしの縦走である。近藤勝也さんと二人、ツェルトを使って荷を軽くした。最終的に槍ヶ岳の先の南岳で断念したが充実した山行だった。当時の記録があったので載せてみる。

1965/8/1 信濃四谷‐猿倉‐白馬尻


8:31 近藤は第2白馬に載っていず
   米 160円 12日x4合x2人=9升6合=14.5kg
11:51 近藤9:38の汽車で来る。食糧、その他購入終わり。
本日天気晴朗、温度高し
12:15 バス出発
12:55 猿倉着 パックをしなおし、リンゴをかじる
13:10 出発
14:45 白馬尻小屋
15:00 TS
19:20 就寝

8/2 白馬尻‐白馬岳‐天狗


4:40 起床
5:50 出発
7:35 大雪渓終わり
8:05 小雪渓横 ミゾレを食べてゴキゲン
9:30 お花畑
10:40 頂上ホテル通過 昼食
11:35 頂上 記念写真  16・6度 61% 
12:30 葉書を書く。水を補給し天狗に向かう予定。ガスが段々とひどくなる。涼しくなったので行動には楽。ミカンの缶詰を食べ元気をつける。
13:10 S
13:35 杓子岳手前鞍部
14:15 鑓手前鞍部
14:45 鑓中腹 ガス一面 視界50m
15:03 間食 小雨がぱらつく
16:00 TS 天狗小屋 青空が見え出す コマクサ
19:05 就寝

8/3 天狗‐唐松‐五竜


4:30 起床 天気:晴 風が冷たい
6:00 出発
6:15 天狗岳
6:40 キレット入口
7:15 最低部通過
7:55 Ⅰ峰、Ⅱ峰の間
8:40 Ⅱ峰
9:22 唐松手前ピーク 快晴 西風
9:45 唐松岳 昼食
11:00 唐松小屋を通過
11:57 コル 雪渓 ガス 薄日  昼寝
13:10 神戸高校山岳部
13:33 五竜手前尾根  間食
14:33 TS 五竜小屋 夕立(10分ぐらい)水を汲みに行く 雪渓は大きい
16:00 気象
17:50 食事を済ませ水汲み
19:00 就寝

8/4 五竜‐八峰キレット‐鹿島槍‐冷池‐種池


3:55 起床 快晴
5:40 出発
6:45 五竜岳
7:35 第Ⅰ峰手前ピーク
8:10 第Ⅰ峰と第Ⅱ峰中間ピーク
8:50 第Ⅲ峰手前コル 昼食
10:02 キレット小屋手前ピーク
10:29 キレット小屋  サイダー150円(見ただけ)
10:50 八峰キレット手前 人待ち
11:00 キレット通過
11:15 信州側ガス
11:55 鹿島槍もうすぐ ファイト
12:05 ガスが黒部側へ越える
12:50 鹿島槍ヶ岳  間食
13:30 ガス 薄日
14:10 雪渓 沢山あったが寄ったのは始めて
14:30 冷池小屋を通過
14:40 大谷原分岐
15:25 飯を食う。腹が減っては戦にならん
16:40 種池小屋 シラビソの木がきれい 気象
17:10 TS 水汲み
長い長い道のりであった。結局予定より一日早く種池に着いた
台風接近により明後日は荒れる模様。針木小屋に避難の予定

8/5 種池‐岩小屋沢岳‐鳴沢岳‐針ノ木岳‐針ノ木峠


4:30 起床 台風15号九州西 台風16号本州南(これが危険か)
6:15 出発
6:55 八ヶ岳、南アルプスが見える
7:30 岩小屋沢岳
8:15 新越乗越すぐ西雪渓 針の木峠に槍が見える
8:55 鳴沢岳 白山が見える
9:50 赤沢岳 昼食 黒部ダムが目の下 立山バック
11:15 ダムサイトの一部が見える
快晴 信州側ガス 黒部側の青空の美しさ較べるものなし
11:22 立山上空でジェット機が宙返り
12:23 スバリ岳
12:50 スバリ、針ノ木の間雪渓 ミゾレ
13:55 針ノ木岳 間食 よく見える
15:33 針ノ木小屋 TS
19:00 就寝

8/6 針ノ木峠‐蓮華岳‐北葛岳‐七倉岳‐船窪小屋


5:10 起床 快晴  船窪まで行こう
6:30 出発
7:15 蓮華岳 展望非常によし
8:20 蓮華、北葛鞍部
9:30 北葛岳
10:15 鞍部を過ぎたところ ガス (昼食)
台風は山口、広島あたり
11:50 七倉岳
台風は日本海へ
13:15 船窪小屋

8/7 -船窪岳‐不動岳‐烏帽子岩


5:45 起床 天気良 風少々
7:40 出発
8:15 船窪岳
10:55 昼食
12:55 不動岳通過
13:26 南沢岳手前 南沢分岐  快晴
14:15 南沢岳頂上 すぐ北に雪渓  間食
15:23 TS 烏帽子岩下草原
18:15 食事も済み日も沈みかける
日程の半分を消化した。あとは荷も軽く気も楽である
ここにある花 チングルマ ウスユキソウ ハクサンチドリ ウサギギク イワカガミ
食べられる草 アザミ ヤマニンジン

8/8 烏帽子‐野口五郎‐水晶小屋


4:25 起床  快晴 富士山が見える
6:30 出発
7:05 烏帽子小屋
9:00 靴修理
9:25 昼食 雪渓
10:45 野口五郎小屋
11:00 野口五郎岳
11:25 槍が目の前  1時間ポカン
13:35 水晶手前ピーク 晴
14:00 水晶小屋  半分屋根なし 今日はここをTSとしよう
拾ったナスビで焼きナスを作る

8/9 水晶小屋‐赤牛岳‐水晶小屋‐祖父岳‐祖父沢源頭


4:30 起床 風強くガス
5:25 出発
6:15 高天原分岐 ガス上がり快晴 富士山見ゆ
6:33 ほぼ中間
7:20 赤牛岳 富山平野、能登半島見ゆ 天気快晴 風も収まる
黒部ダム 眼下
8:20 雪渓 昼食
10:50 水晶岳  水晶探し
12:05 水晶小屋に戻る 間食
13:25 祖父岳
14:15 祖父沢源頭TS テント数20数張り
散歩 テント数 40

8/10 -黒部源流‐三俣山荘‐双六


5:00 起床 快晴 雲ひとつなし
6:25 出発
6:35 祖父岳、三俣分岐
7:18 黒部源流
8:25 三俣山荘
8:58 槍が間近 天気快晴
9:57 お花畑 昼食 昼寝
11:03 靴修理
11:55 双六TS 拾得物 トリスウィスキー、缶詰 海苔 帽子 ピーマン
14:13 相変わらず快晴 シュラフを拡げて寝そべっている。
ここでは色々なものが落ちていて面食らう。ウサギまで落ちていた。
近藤は洗濯の夢が破れたと嘆く。
明日も明後日も短いコースタイムでのんびり出来る。
上高地へ行ったらウィスキーを飲もう
ボッカ力には相当余裕がある
夢だった白馬-穂高縦走も成功しそう。今日の天気は2,3日は持つだろう

8/11 双六‐槍ヶ岳‐南岳


4:45 起床 薄曇
6:10 出発
7:05 槍 目前
7:45 水 氷砂糖
8:55 槍の肩 槍ヶ岳ピストン
9:45 新穂高温泉分岐 昼食
10:35 大喰岳
10:50 中岳 小雨 ガス
11:40 南岳
11:45 南岳避難小屋
風雨が強くなってきたので今日はここで泊まる事にする
天気が崩れて残念

8/12 南岳‐槍沢‐横尾‐上高地


4:50 起床
7:30 出発
9:00 槍沢
10:30 横尾 昼食
13:40 上高地 バスターミナル

1965.3 春合宿(2)

日照開拓村は荘川村岩瀬にあり、満州開拓団の人たちが引き揚げ後に入植したところである。名前の由来は荘川の谷越しに見える日照岳に由来している。ここでお世話になった上田さんにはその後もずっとお付き合いいただいた。
2軒のお宅に分かれて開拓地に入植した頃の話などを夜遅くまで伺った。もともとは岐阜県各地から満州開拓団として行った人たちが終戦と共に内地に引き上げてきてここに入植したのである。ずいぶん苦労をされ灌漑用の池も出来、やっと米がとれるようになったと聞いた。部屋のストーブで漬物を焼いて食べた。
次の日は休養日だった。良い天気で雪原を目をつぶって歩いたりして遊んだ。目をつぶってまっすぐ歩いた積りでも大きく曲がってしまうのが面白かった。
六厩(むまや)という村にも行った。話を伺ったお爺さんはなかなかのインテリであった。出された渋茶に舌が痺れた。いや舌が曲がったというべきか。
さらに峠を越えて集結地の原山スキー場まで歩いた。峠を越える朝は大変冷え込んで前日濡れた靴ひもが凍ってまっすぐ立っていた。

日照開拓村はその後何回か訪れてよく岩魚釣りをした。当時は近くの小さな渓流でも良く釣れた。今は放流ヤマメしか釣れない。高速もできて交通の便も良くなり、ゴルフ場、スキー場、あるいは分譲別荘地となっている。

1965.3 春合宿(1)

春合宿では御母衣コースのリーダーだった。雪の覆われた荘川村、白川村を訪ねた。
冬の白川村への国道は凍っていてよく滑った。しかし自動車の通行はほとんどなく好きなところを歩けた。御母衣ダムの付近は急斜面の雪崩に注意が必要である。時々車が雪崩に会うという話を聞かされた。
白川村では合掌造りの家々を訪ねて話を聞いたりした。熊肉を賞味した者もいた。和田家という一段と大きい合掌造りの家では幼稚園ぐらいの子がいて遊んだ記憶がある。今では白川のリーダーなんだろうな。
さらに山に入り馬狩(まがり)を訪ねた。ここは7,8軒の合掌造りの村である。馬狩はいまでは一軒の家も無くトヨタ自然学校が出来ている。昔の面影は何もない。せめて合掌造りの建物にして欲しかった。人間の生活空間も自然の一部である。
隣接して大窪という所がある。たしか3軒だけだったと思う。大窪には大杉鶴平さんが居られた。三方岩岳への登山道の整備などをしている人で、大きな声で笑う元気な人である。三方岩岳からのブッシュの鉈目の切れ口が良いという話になり「何だ。おめぇ達か。ひでえ奴だ。あははっ。」
その後も三方岩へ登るときにお邪魔して囲炉裏端でジャガイモの煮たのを戴いた。小芋を甘辛く煮たもので驚いたことにこの芋は長崎からのものであるという。どういうことなんだろう。
大杉さんが「お前、この家買わないか? 10万円だ。」と言う。「しかし、運ぶのに80万円かかるぞ。」もちろん私にはそんなお金は無かった。初任給が1万円をやっと越したころである。
大杉さんはその後民宿などもやっておられたようだが家は火事で焼失したと聞いた。大窪には大杉邸の一部の建物が残り、三方岩岳も見えるのでわずかではあるが昔の雰囲気がある、

1964.11 奥高野 弓手原

春合宿では里での活動を計画していたのでその手始めに奥高野の今西、弓手原という村を訪ねた。今西はやや中流域の谷に沿った村で林業が主である。村にはかなり活気があるように感じた。ちょうど祭の最中で餅撒きをやっていた。いくつか拾って美味しくいただいたが村の人は変な連中が入ってきて面食らったことだろう。
このころは材木需要が旺盛だったのか山に入ると伐採の現場に出会うことが多かった。このころにはワイヤーロープを張り、吊り下げて山から下ろしていた。皆伐方式で山の斜面には何もなくなってしまう。
以前は切った木材は木馬(きんまと呼んでいた)に載せて木馬道(幅1メートルぐらいの丸木を横に並べたもの)をすべらせて運んでいた。山を歩いていると時々この木馬道を歩くことになる。最近は見たことが無い。
弓手原はさらに上流になり谷が拡がって田んぼなどもあるところである。しかしあまり若い人はおらず農業の将来は苦しかったのだろう。村の人たちと交流会を開いた。過疎化しかかっている村を実際に体験した。
その後あの村はどうなっているのだろう。今は高野龍神スカイラインが村よりはるか上の方を走っている。きっとその道路を使ってどこかへ通勤しているか、ときどき帰ってくるか、そんな生活になっているのではないだろうか。日本の過疎地では恵まれた環境かもしれない。しかし農業だけでは暮らしていける環境ではないと思う。

オープン・ワンダリング

オープンは楽しい。なぜって色んな人が来て普段のワンゲルと違った雰囲気になるからだ。
2年の時のオープンは御岳の開田高原だった。夜遅くまでテントの中であれやこれや話が続いた。話の内容は覚えていないがこんなことを通じて大人になっていったように思う。(なりそこなったかな。)皆色々な事を考えているし夢も悩みもいっぱいあった。
3年のときは妙高高原の笹ヶ峰牧場。ハイキングの途中でナメコをたくさん取り、鍋いっぱいのなめこ汁を作った。

1964.7夏

3年の夏合宿は奥美濃から白山にかけてのブッシュ一杯の山域で行った。私は勝原に置かれた本部担当だった。
まず下見ということで当時和泉村、今は九頭竜湖のあたりに行った。朝日小学校に泊めてもらい、帰りにたくさんのゼンマイを貰った。残念ながら私の田舎にはゼンマイを食べる習慣がなくどうやって料理すればいいのか誰もわからなかった。ワラビと似ているが食べ方が全く異なる。
合宿は順調で暇な本部で釣り糸を垂れていたがたいして釣れなかった。
山に行きたいという欲求を十分貯め込んで合宿後の企画ワンに臨んだのである。

当時白山スーパー林道はまだなかったので三方岩岳から北の山は全く未開拓と思われた。その中の笈岳というのが魅力的に私を捉えた。五万分の一地図だけでは物足りなかったので国土地理院から航空写真も入手して計画を立てた。三方岩から笈の間はすべてブッシュでエスケープルートが無いのでルートを整備しながら往復することにした。

勝原から白川村へ 御母衣ダム
合宿の後、バスを乗り継いで石徹白、白鳥を経て白川村へ向かった。当時御母衣ダムは竣工し、その次の大規模ダムとして九頭竜ダムの準備が行われていた。ちょうどうまい具合に御母衣ダムの堰堤のところでバスのタイヤがパンクし、ゆっくりとロックフィル構造の堰堤の見物をした。ダムの下には建設用車両などがたくさん停めてあり、工事中は盛況だっただろうという飲屋も見かけた。その頃は自然破壊などという発想はあまりなくて力強い息吹を感じたと思う。後に春合宿で再度御母衣ダムを訪れ、地下の発電所を見学した。地下の通路をずいぶん歩いた。

三方岩岳から笈岳
三方岩岳は名の通り頂上に大きな岩壁(加賀岩、越中岩、飛騨岩)を持つユニークな山だ。しかも頂上直下に草地があり水も得られる。
登山路は麓の馬狩から登る。この日は暑い日で合宿集結の睡眠不足もあり辛い登りとなった。登りきるとメンバーからは兎も角腹が減ったの声。合宿の直後なのでみんな大食漢になっている。それで一人当たり飯盒1個(4合)を炊いたところ完食した。これが活動力の源か。
三方岩岳から稜線沿いに笈岳方向へ藪に鉈を入れながら進んだ。田舎の爺さんから借りた鉈の切れ味はとても良かった。瓢箪山(ふくべやま)の辺りまでルートを確保し、後はブッシュ漕ぎの往復となった。この辺りの山は道が無い。しかし雪のある季節には猟師が自由に歩き回っているようである。
私は留守番で谷に下り水を探しに行った。ルンゼ上の所を大分下り水を汲んだ。途中で岩壁に居るカモシカに会った。その頃は猟が盛んだったので野生のカモシカなんかお目にかかることはなかなか無かったように思う。熊の心配も全くしなかった。(爪痕は良く見たが。)その頃は熊は人を恐れていたのではないだろうか。
ところどころに二重山稜になっているところがあり草滑りをして遊んだ。
夕方藪の中で寝転んでいると空を横切って人工衛星が飛んだ。まだアポロが月へ行く前である。

ケネディ暗殺 1963.11

1963年11月23日勤労感謝の日、OUWVは播州に出かけていた。私は何が理由は分からないが欠席していた。その朝飛び込んできたのがケネディ暗殺の報である。なにか希望を打ち壊されたような気がした。若者には人気があったと思う。冷戦時代のなかでイデオロギー論を戦わせるなかで現れたヒーローといった感じだったのだろうか。

台風

白馬岳では村営小屋の裏のテントサイトに泊まった。台風の襲来が予想されたのでテントの裾を一面大きな石で押えて風に備えた。
しかし風は予想以上に強く、一晩中ポールを支えて過ごすことになってしまった。強い風にテントがあおられ内部は細かい飛沫でびしょ濡れになってしまった。朝方すこし収まってやっと小屋に避難した。テントの裾は生地がビリビリに裂けてしまった。
台風の後も西風が強く北アルプスの峰々にはすべてレンズ雲がかかって壮観だった。
帰りは鑓温泉も通り過ぎるだけでさっさと下って行った。山で荒れると本当に恐ろしい。

阪大山小屋

夏の終わり頃に白馬岳に行くため白馬大池駅から歩いて阪大山小屋に向かった。阪大山小屋での待ち合わせだったので、小屋で前泊しようと一日早く出かけた。親の原を一人でとことこ歩いて行った。神の田圃という小さな湿原がある。まだ時間に余裕があったので寝転がっているうちに本当に眠ってしまった。「もしもし」という声に起こされると子供を連れた白髪の老人が心配したのか「どうされましたか?」と問いかけてきた。びっくりして時間があったので休んでいましたみたいなことを言ったと思う。まだ頭の中がぼんやりしているうちに立ち去って行った。あれは仙人だったのか、それとも私の夢だったのか判然としない。でもとてもいい感じの二人連れだった。
阪大山小屋は無人で閉まっていて入れなかった。玄関の軒先で一晩中ネズミのガサゴソいう音と一緒に寝た。