1963.3春合宿

一年の春合宿は中国地方一帯で行われ、私は広島県可部に置かれた本部だった。本部といっても一年なのでほとんど地域の人との交流を行っていた。主に発電所の放水路で蟹を取ったりして子供と遊んでいたのである。
子ども達を招待してハイキングをしお昼にカレーを振舞った。彼らはお腹が裂けるのではないかと思うぐらいに気持ちよくお代りをしていた。人間の胃も伸縮性が大きく必要なときには食い溜めもできるのかと思う。合宿の後では必ず胃袋が大きくなっているのを感じる。
この時の集結時のメニューは鶏であった。本部が奮発してメニューを考えたのだろう。生きた鶏を何羽もズダ袋に入れて運んで来て料理した。〆るのに苦労した。首のない鶏が走るのは始めて見た。
里入り活動としてシイタケ菌を木に植え付ける仕事をしている時にすぐそばで火事が起きた。周りに人影はなく大声で火事だ、火事だと叫んでいると消防車が来たのだが運転手だけでホースを持つ人がいない。そこでホースに振られながら消火をした。これも消防団の体験実習みたいなものか。幸い火事は大事には至らなかった。あとであのホースを持っていたのは誰なんだという話になったらしい。

1963.3春合宿

一年の春合宿は中国地方一帯で行われ、私は広島県可部に置かれた本部だった。本部といっても一年なのでほとんど地域の人との交流を行っていた。主に発電所の放水路で蟹を取ったりして子供と遊んでいたのである。
子ども達を招待してハイキングをしお昼にカレーを振舞った。彼らはお腹が裂けるのではないかと思うぐらいに気持ちよくお代りをしていた。人間の胃も伸縮性が大きく必要なときには食い溜めもできるのかと思う。合宿の後では必ず胃袋が大きくなっているのを感じる。
この時の集結時のメニューは鶏であった。本部が奮発してメニューを考えたのだろう。生きた鶏を何羽もズダ袋に入れて運んで来て料理した。〆るのに苦労した。首のない鶏が走るのは始めて見た。
里入り活動としてシイタケ菌を木に植え付ける仕事をしている時にすぐそばで火事が起きた。周りに人影はなく大声で火事だ、火事だと叫んでいると消防車が来たのだが運転手だけでホースを持つ人がいない。そこでホースに振られながら消火をした。これも消防団の体験実習みたいなものか。幸い火事は大事には至らなかった。あとであのホースを持っていたのは誰なんだという話になったらしい。

38豪雪

1963.1は強い寒波で明けた。38豪雪といわれる大雪が日本列島を襲ったのである。私たちは正月休みに青山高原に行ったのだがとても寒く吹付ける風雪の中を歩いた。
その38豪雪のさなか北アルプス薬師岳で愛知工大の遭難が発生した。山の怖さを教えられる事件だった。詳細を知りたくて近くの駅の売店へ新聞を買いに行った。山行きに魅力を感じ始めていたところに起きた事件であったが山へ行くのが怖くなるとかはまったくなかった。しかしその後の活動に慎重さをもたらしたかもしれない。当時は挑戦的な山行が多かったと見え、魔の山と呼ばれた谷川岳でも多くの遭難者があった。そんななか始めたワンダーフォーゲルと言う名の山登りであったから家族は大分心配したようである。岩登りはせずに山歩きであると説明していた。

八ヶ岳

1962.10パーワンで八ヶ岳に行った。パーワンというのは数名でパーティーを組んでいくもので、合宿とは異なり行きたい所を選び計画する。もちろん部の活動であるから計画の策定・提出などはきちんと行う。私は一年だったので連れて行ってもらったというところである。八ヶ岳は楽しかった。山も良かったのだがなによりパーティーの雰囲気が楽しかった。軽い荷物でのピストン形式の登山も楽しかった。岩の多い高度感のある山は初めてだった。
多分横岳だと思うが山頂のケルンの石の下に山手線の切符が挟み込んであった。そうか、ここは東京の人が来るんだと一種の感慨を感じた。山家の猿は花のお江戸で芝居をしなければならない。
Hさん(4年)がやけに大きな荷物を担いできた。中身はビンビールであった。その頃(昭和37年)にはまだ缶ビールが一般的ではなかったのだろう。そのビールを飲んだことは覚えていないのだがきっと美味しく飲んだに違いない。これが役員会で問題となったそうだが聞いたのはずっと後になってからであった。Hさんとは最近もご一緒させていただいている。楽しい先輩である。

事故

一年の夏合宿中の事故で桑原さんを失った。袖沢に入ったものの難しかった為撤退し、奥只見湖を船で渡っている途中で船べりから転落した。しばらく泳いでいる姿が見えていたのだが救いの船が行く前に水没し助けることが出来なかった。いまでもその情景が浮かぶ。残念の極みである。場所は銀山湖の虚空蔵岩の下あたりである。遺体は冬の渇水期に発見された。
桑原さんは四国今治の人であった。駅から近いところに菩提寺があり、石鎚山に行った際にお参りした。そのときお寺で抹茶をご馳走になった。
40数年後銀山平を訪れた際、清四郎小屋の主人に会ったがその頃消防団に入ったばかりで、遺体の捜索に当たったと話しておられた。