1965.3 春合宿(1)

春合宿では御母衣コースのリーダーだった。雪の覆われた荘川村、白川村を訪ねた。
冬の白川村への国道は凍っていてよく滑った。しかし自動車の通行はほとんどなく好きなところを歩けた。御母衣ダムの付近は急斜面の雪崩に注意が必要である。時々車が雪崩に会うという話を聞かされた。
白川村では合掌造りの家々を訪ねて話を聞いたりした。熊肉を賞味した者もいた。和田家という一段と大きい合掌造りの家では幼稚園ぐらいの子がいて遊んだ記憶がある。今では白川のリーダーなんだろうな。
さらに山に入り馬狩(まがり)を訪ねた。ここは7,8軒の合掌造りの村である。馬狩はいまでは一軒の家も無くトヨタ自然学校が出来ている。昔の面影は何もない。せめて合掌造りの建物にして欲しかった。人間の生活空間も自然の一部である。
隣接して大窪という所がある。たしか3軒だけだったと思う。大窪には大杉鶴平さんが居られた。三方岩岳への登山道の整備などをしている人で、大きな声で笑う元気な人である。三方岩岳からのブッシュの鉈目の切れ口が良いという話になり「何だ。おめぇ達か。ひでえ奴だ。あははっ。」
その後も三方岩へ登るときにお邪魔して囲炉裏端でジャガイモの煮たのを戴いた。小芋を甘辛く煮たもので驚いたことにこの芋は長崎からのものであるという。どういうことなんだろう。
大杉さんが「お前、この家買わないか? 10万円だ。」と言う。「しかし、運ぶのに80万円かかるぞ。」もちろん私にはそんなお金は無かった。初任給が1万円をやっと越したころである。
大杉さんはその後民宿などもやっておられたようだが家は火事で焼失したと聞いた。大窪には大杉邸の一部の建物が残り、三方岩岳も見えるのでわずかではあるが昔の雰囲気がある、

1964.11 奥高野 弓手原

春合宿では里での活動を計画していたのでその手始めに奥高野の今西、弓手原という村を訪ねた。今西はやや中流域の谷に沿った村で林業が主である。村にはかなり活気があるように感じた。ちょうど祭の最中で餅撒きをやっていた。いくつか拾って美味しくいただいたが村の人は変な連中が入ってきて面食らったことだろう。
このころは材木需要が旺盛だったのか山に入ると伐採の現場に出会うことが多かった。このころにはワイヤーロープを張り、吊り下げて山から下ろしていた。皆伐方式で山の斜面には何もなくなってしまう。
以前は切った木材は木馬(きんまと呼んでいた)に載せて木馬道(幅1メートルぐらいの丸木を横に並べたもの)をすべらせて運んでいた。山を歩いていると時々この木馬道を歩くことになる。最近は見たことが無い。
弓手原はさらに上流になり谷が拡がって田んぼなどもあるところである。しかしあまり若い人はおらず農業の将来は苦しかったのだろう。村の人たちと交流会を開いた。過疎化しかかっている村を実際に体験した。
その後あの村はどうなっているのだろう。今は高野龍神スカイラインが村よりはるか上の方を走っている。きっとその道路を使ってどこかへ通勤しているか、ときどき帰ってくるか、そんな生活になっているのではないだろうか。日本の過疎地では恵まれた環境かもしれない。しかし農業だけでは暮らしていける環境ではないと思う。

オープン・ワンダリング

オープンは楽しい。なぜって色んな人が来て普段のワンゲルと違った雰囲気になるからだ。
2年の時のオープンは御岳の開田高原だった。夜遅くまでテントの中であれやこれや話が続いた。話の内容は覚えていないがこんなことを通じて大人になっていったように思う。(なりそこなったかな。)皆色々な事を考えているし夢も悩みもいっぱいあった。
3年のときは妙高高原の笹ヶ峰牧場。ハイキングの途中でナメコをたくさん取り、鍋いっぱいのなめこ汁を作った。