富士山

富士山はもちろん日本一高い山である。富士山にはいつか登らなければならないと思いながらなかなかその機会が無かったが50歳になって初めて登った。そろそろ登っておかないとヤバイかなと思ったのである。ちょうど流星群の時であり夜間登山だったので寝転がって休んでいると沢山の流れ星を見ることが出来た。大きなものはその軌跡がぼうっと空に残る。
富士山は2回登る馬鹿と言われるが私は結局3回登ることになった。最後はSさんを富士山に登らせる会の責任者に祭り上げられ10名ぐらいで登ることになってしまった。この時八合目で高山病の症状がでて登山を中断せざるを得ないメンバーが出た。やはり富士山は高い。
この富士山を遠くから見つけることが出来るとなかなかの感激ものである。新潟県の中岳や長野県の白馬岳あたりから見つけた時も嬉しかった。
東京付近では天気さえよければ富士山を見る事が出来る場所はいくらでもある。私が居た戸塚の寮の名前は富士見寮でその名の通り良く見えた。
大阪からは富士山は見えない。私は今でも富士山が見えると何か得をしたような気になる。新幹線に乗ってもそうである。

残雪

夏山に行って嬉しいのは残雪である。通常は雪渓、雪田というタイプのものであるが袖沢で出会ったのは雪洞であった。雪崩で積もった雪の山側が溶けて通り抜けられるようになっており道がそこを通っていたのである。今にも崩れそうで涼しかったのはただ温度が低いからだけではないようだった。
雪があるとほとんど例外なしにまずその上に乗ってみる、足跡を付けてみるということになる。そしてこれは結構きれいだなと思うと食べてみることになる。秋田駒ケ岳では合宿の残りのジュースの素が沢山あったのでコッフェルに一杯食べて頭痛を起こした。後立山では練乳で食べ、飯豊山ではミルク宇治金時を食べた。

雉打ち

いまは自由に出来なくなったものの一つが雉打ちである。もちろん雉が禁猟になったとか言う話ではない。食後の満足感に浸りながらスコップを片手に適地を探したものである。見晴らしの良い場所などを探し当てた時はかなり充実した一時を送れることになる。今はこういう自由は許されず大概は長くは居たくないところでそそくさと終えることになる。そしてこれからは携帯トイレ持参ということになるのだろう。排泄物というのは意外と重いものでもありそれを持ち帰るということで雉打ちの爽快感が随分損なわれるように感じるのは人間の手前勝手なのだろう。
それにしても中岳の頂上の草原での雉打ちはもう二度と味わえないものだった。
山に行くには日頃からウォシュレット無しでの訓練をされることをお勧めする。

雷にはいろいろな種類があるらしい。山での雷の特徴はまず音が大きい。周り中から音が跳ね返ってくるようだ。私の田舎では夏の午後には激しい雷雨が来ることが多かった。
雷は木に落ちることが多いらしい。私が見たのは木に落ち、途中から逸れて塀の瓦を割っていた。野中の田んぼの真ん中に落ちて直径10メートル位黒く焦げているのもあった。雷には火雷と水雷があるらしい。前者は火事を起こす。後者は火事にはならないらしい。雷が落ちて天井裏の蜘蛛の巣が黒く焦げていたという話を聞いたこともある。
山では雷雲の中に入ってしまうこともあるようだ。この場合には周りが帯電状態になってしまうのだろう。ともかく絶対的な安全策はなくただ小さくなって通り過ぎるのを待つしかないようだ。

1962.7 一年夏合宿

1年の夏合宿は魚沼コースだった。コシヒカリで有名な新潟県魚沼である。魚沼三山と呼ばれる八海山、中岳、越後駒ヶ岳から荒沢岳を経て奥只見ダムへ下り袖沢を経由して会津駒ケ岳へ抜ける予定である。八海山は日本酒名としても有名である。この八海山が私が登った最初の大きな山である。
夜行列車(夜汽車というほうが雰囲気が正しい)で東京まで行き、上越線で清水トンネルを抜けた。これが生まれて始めての東京だったが下車はなく窓から見ただけ。夜明けの寝静まった東京を通り過ぎた。
ちょうど梅雨明け目前の雨で合宿初日の炊飯には苦労した。半生の良く燃えない木を無理やり扇いで炊いたため煙くさい燻製のようなご飯になった。

八海山には頂上にいくつかの岩峰があり、掛けられている鎖を頼りに越えていった。始めての合宿の大きなザックを担いで岩を越えるのに苦労した。
さらに私たちを待ちうけていたのは雷である。丁度梅雨明けの雷雨が来襲しおかめ覗きという狭い尾根上で非難する所もなく斜面にしゃがむなどした。何もかもが帯電しているらしく人と鍋の間で火花が飛んだりしてびっくりした。さいわい被雷はなかったが文字通り髪の毛が逆立つようだった。

新人歓迎 予備合宿

オープンWが六甲奥池の周辺であった。お客様という感じでテントで寝たのを覚えている。これが私の初めてのテント泊である。今の奥池周辺は住宅街のようになっている。もうキャンプなんて出来ないんだろうな。
その後新人歓迎が比良山で行われたが私は行っていない。貧乏な私には山の道具は結構高かったので迷ってしまった。しかし先輩のKさんに説得され、続けることにした。しかしそのKさんは途中でやめてしまった。私は残ってしまった。
学生生活の昼休みはトレーニングの場となる。待兼山の上り下りのある周回コースと芝生で汗を流した。午後一番の授業は睡魔との闘いになる。戦いに敗れて熟睡なんてことも。そして次は予備合宿という訓練の場。担ぎなれないキスリングザックが肩に食い込むのを経験することになる。登り坂になるとなぜか「ファイト」の掛け声を揃えて歩いた。決して六根清浄ではない。やはり私達の山歩きは体育会系なのだ。

1962.4 ワンゲル入部

入学直前に自転車で5日間かけて名古屋、奈良、和歌山などをまわった。旅にあこがれるというか、色んな所を見てみたいという気持ちがあったのは確かである。家の中にじっとしておれないタイプである。
そして大学に入るとワンダーフォーゲル部があり、サイクリング部とどちらに入ろうかと迷ったが親身に相談に乗ってくれる(単に勧誘か)先輩もいたりしてワンゲルに入ることにした。当時ワンゲルは大変な人気で全入学者の一割以上の人が入部したらしい。後に聞いた話ではテントをはじめとする装備類の手配・入手が大変だったようである。同じクラスからも何名かの入部がありその中の一人であるKさんはそれ以来の長い付き合いとなった。
ワンダーフォーゲルというものを理解していたかはよく判らない。ワンゲルとは何かという課題はその後もずっと抱えたまま活動することになる。